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劉テイ (建安七子) : ウィキペディア日本語版
劉テイ (建安七子)[りゅう てい]

劉 楨(りゅう てい、? - 217年)は、中国後漢末に曹操に仕えた文学者。公幹建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)〔『三国志』巻21「王衛二劉伝」裴松之注所引の『文士伝』によると「子」。范曄の『後漢書』巻80下「劉梁伝」では「孫」とする〕。
== 略歴 ==
曹操に招かれ丞相掾属となり、五官将文学・平原侯庶子に転じて、曹操の息子の曹丕曹植と親しく交際した。後に宴席の場で、曹丕が夫人の甄氏に命じて挨拶させた時、座中の人々が平伏する中、一人彼女を平視した。このことを聞いた曹操に不敬を問われたが、死刑を許されて懲役にされた。
世説新語によると、曹丕は「貴方は何故法を守らないのか」と問い、劉楨は「法の網目が疎かでない事が理由です」と答えたという。
尚、この事件により共に曹丕の賓客として仕えていた呉質も連座し、朝歌へ左遷されている。
刑期が終わると吏に任じられた。217年に死去。
王昶伝によると、王昶は彼の人柄について「博学で高い才能を持ち、誠実な生き方をし大志を抱いていた。しかし人柄と行為に均質性がなく、自己を拘束したり遠慮したりする事が少なく、長所と短所は差し引きゼロであった。私は彼を愛し重んじるが、我が子が彼を慕う事を望まない」としている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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